●先に平氏と戦っていた範頼軍がめざましい戦果をあげられず、ついに義経の出陣となる。
文治元年二月十六日
摂津の渡辺には源氏の軍船200艘が集結していたが、暴風が吹き荒れていて出発できなかった。 しかし義経は十七日未明に出発した。従う兵船は150騎あまりを乗せた5艘にすぎなかったという(片岡義忠(八郎?)も従った模様)。
強い追い風に助けられ、普通三日ほどかかるとされているところを約6時間で阿波の勝浦に着いた。(十八日の未明に出発4時間ほどで着いた。 一説には一日間違えていて実際は一日半かかったといわれている)
そして阿波の武士近藤親家に案内を命じ、夜を徹して馬を馳せ、十九日早朝には屋島に迫った。 そこで火を放ったところ、平家は大軍の襲来と勘違いし、狼狽して海上に逃れ、屋島の内裏を焼き払った。 やがて源氏が以外に小勢だとわかると平氏も引き返してきて終日、合戦が行われた。 次第に源氏に味方する武士が増え、ついに平氏は屋島を退却した。
梶原景時ら源氏の主力が屋島に着いた時、すでに合戦は終わっていた。
有名な『壇ノ浦の合戦』はいわば駄目押しであり、『屋島の合戦』で本拠を失った平氏の行方は知れたものであった。それだけに義経主従の奮戦を物語るものが多い。
・佐藤継信が能登守教経の強弓から義経を守って華々しく討ち死に。義経は手厚く葬った。
・合戦の最中に弓を海中に落した義経は、自分の持つ弓の弱さが敵に知れるのを恥、生命の危険をかえりみず弓を拾った。
・有名な那須与一の「扇の的の射落とし」もこの合戦最中である。
元々、頼朝に仕えていた片岡義忠(八郎?)はこの戦で義経に仕える。 そして活躍により義経から太刀を拝領していて、これ以後は義経に仕えるようになる。 共に戦ってみてなにか感じるものがあったのだろう。後に主力な義経郎党となっている。