●岩手、青森には数多く義経の「生存・北行説」が残っている。そして、北海道にもある。
これらに地図上で印を付けていくと、だいたい線上になる。ばらばらであったらただのホラ話で終了するが、 あたかも義経一行が通ったかのごとく伝承が一致しているというのは無視するわけにはいかない。
「奥州南部封域志」(1765年、高橋子績著)によれば、義経とともに北行した人は、 弁慶、依田弘綱、亀井重清、鈴木重家、片岡八郎、伊勢三郎、駿河清重、黒井影次、熊井忠元、鷲尾三郎、 備前平四郎、佐藤三郎、佐藤四郎、宮部卿頼然、下部鬼三太など16名以外に、義経の北の方(妻)、義経の娘(浄瑠璃姫) なども同行していたとある。
一つ引っかかる情報がある。
それは、建久年中(1190~1197年)江刺郡片岡村に鈴木三郎重家の子、 鈴木小太郎重染が義経と父のために「重染寺」を建立したこと。(「亡君去父の追福の為」とある)
ちなみに鈴木三郎重家は亀井六郎の兄。『高館の戦い』で兄弟共に死んでいる。
しかし、義経北方行きのさい、正治元年(1199年)横山八幡宮(宮古市宮町)に義経主従が参詣に訪れた時、 鈴木三郎重家はここに残留し名を重三郎と変え、この横山八幡宮の神主となったという話がある。