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源義経 人物像

義経 イラスト中尊寺義経肖像画
中尊寺所蔵源義経公肖像

源九郎義経

幼名は牛若。平治の乱で捕えられ、京都の鞍馬寺に入り遮那王と改名。後に九郎判官と呼ばれた。

性格:直情的

●風貌について
頼朝:「顔大きに、背低かりけり。容貌悠美にして、言語文明なり」
義経:「色白う背小さきが、向歯(上の前歯)の殊に差出でて」
中尊寺にある義経公肖像は、江戸期に描かれたものと言われており、義経公が亡くなってから五百年も後に描かれたものであるので参考にならない。
・盛衰記には
「面長うして身短く、色白ろうして歯出でたり」とある
・秀衡が義経と並み居る家臣たちに向かってこう言う、「みめよき冠者殿なれば、姫もたらむ者は、むこにも取奉り~」。
義経は美男であるから家臣に対し、婿にとっても養子にするもよし~と平泉在住を願っている。 平治物語

●時の摂政、藤原兼実は義経を「仁義に厚い武将」と誉めている

●天才的戦術家(六韜(りくとう)の兵書に精通)だが政治音痴

●義経の四天王
・「亀井、片岡、伊勢、駿河」後世歌舞伎の名狂言となった勧進帳に登場する
・「佐藤継信、佐藤忠信、鎌田盛政、鎌田光政」とする人もいる
いずれにしても弁慶は別格のもよう。

●鎌倉の永福寺(ようふくじ)建立の目的を頼朝は
一、奥州藤原三代建立の華麗なる精舎を忘れかね、その鎌倉での模倣・再現ををはかった。
ニ、「今、関東長久の遠慮を廻らしめ給うの余り、怨霊を宥めんと欲す。義顕(義経のこと)と云い、泰衡と云い、指したる朝敵に非ざるも、只、私の宿意を以て誅亡」したことへの鎮魂のため。
宝治二年二月五日条
として、ここに頼朝は奥州征伐は源氏が勝手に仕掛けた合戦であったと白状している。

◆個人的考察◆
源平合戦時、義経は優れた戦術家であって戦略家ではなかったと思う。つまり頂点(大将)の器ではなかった。 やはり、頂点は頼朝のような人物でなければ勤まらない。 しかし、あの北方の王者藤原秀衡の遺言は義経を大将軍とせよとのものであるから義経は成長したものと思われる。 まさに判官贔屓ではありますがね、人間とは成長するものですので。  風貌について、母は「常盤御前」である。都中の美女千人の中から一人選ばれた美女であるから、美男子であっただろうと思う。 そして、物凄いスター性を合わせ持ったオーラがあったと思う。これだけ愛され語り続けられる日本歴史上初の英雄・ヒーローですから。