1118年、平忠盛の長男として生まれる。母は祇園女御またはその妹という説がある。
弟は上から、経盛、教盛、頼盛、忠度。
妻は中流貴族の兵部権大輔平時信の娘、時子。
男の子供は上から、
重盛、基盛(早世)、宗盛(時子の生んだ長男。清盛が没した後は一門の総帥となる)、知盛、重衡、知度、清房<猶子>、清定(貞)<猶子>、清邦(国)<猶子>
※猶子:1.兄弟の子(甥、姪)2.兄弟・親戚、または他人の子を養って自分の子としたこと。
女の子供は八人。徳子<三女>は高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生む。
性格:『十訓抄』(翻刻)(鎌倉中期の説話集)では「温厚で情け深い人物」とされている。
平家物語のせいか悪者イメージがついてしまっているが、あれだけの組織のリーダーだし公家、貴族を目指しているところからもイメージのような悪逆非道な性格ではないだろう。
●保元の乱(1156年)で後白河天皇方について崇徳上皇方を破る。次いで平治の乱(1159年)で源義朝と戦って勝ち、平氏に対抗できる武士はいなくなる。
1167年、武士としては初めて太政大臣に任ぜられる。
1168年、病に倒れ、出家する。
1171年、娘の徳子を高倉天皇の女御としてに入内させる。そして全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易で莫大な財貨を手にし、隆盛を極める。「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる平氏の時代である。
平氏一門の隆盛に対し、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、ついに対立する。
徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は様々な勢力から反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、1180年、熱病に倒れ死去。享年64。
●厳島神社
広島県廿日市市。
平安時代末期、1168年(仁安3年)ごろに平清盛が社殿を造営。
絢爛豪華な装飾が施された平家納経がある。