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怪しい系図

私の故郷の某図書館に保管されている、我が一族の系図の写しです。
清和天皇-貞純親王-経基王-満仲-頼信-頼義-義家-義国-義重-義房-義範-義忠  とあり、義忠のところが下のように書いてあります。
 ※カタカナ文字はひらがなへ直し、右の西暦などは私が入れました。

義忠  片岡将監美作守
文学達人 上野国片岡郡水郷住 治承四年源朝臣頼朝公仕              1180年
元暦元年八島合戦軍功大也 義経公より太刀拝領以後義経公仕             1184年
文治元年十一月兄頼朝公と義経不和に相成同十八日解官同二年三月吉野多武峰所々忍住 
同年又陸奥下向此時片岡将監義経下向後奥州下リ
文治五年閏四月高館泰衡征伐之時義経公方之軍に加り同閏四月二十八日         1189年
泰衡敗地義経公者東夷落行 片岡将監敗北故本国皈国相不叶依而奥州            皈=帰
和賀郡岩崎城家中に相成同郡里分郷ノ内三拾貫文地拝領同所田中浮島に居舘
建久四年より同所大舘阿部家中に相成是 和賀家幕下也                1193年

 

【個人的考察その一 信憑性について】
・義重-義房-義範 のところの義房についてどの系図にも記載が無い。しかしこれはミス記載の可能性が高い。
・義範:山名三郎(新田義重の子・義範が上野国多胡郡山名に住み、山名三郎と名乗ったのが始まり) に義忠という子がいたという系図がない。
・和賀家幕下にそれらしき人物の記載が無い。

以上から、個人的に信憑性は1%程と考えます。

【個人的考察その二 系図について】
「義忠 片岡将監美作守」文学達人 上野国片岡郡水郷住 とあります。義経郎党の者と思われますが、片岡を名字とする者は片岡兄弟とあと、もう一人いる感じはあるものの、将監美作守を承るほどの人物であるから主要な郎党であったのだろうと思います。
兄の片岡常春においては常陸国出身であるから可能性は消えます。弟の片岡八郎について調べると、美作国に実在したことは確からしいが正確な情報が無いのです。 片岡常春の系図には記載されておらず、なぜ片岡兄弟と呼ばれているのか不明です。昔は「今日からお前と俺は兄弟だ」的な事があったのかもしれません。 また、1184(寿永3)年、木曽義仲討伐のさい、鎌倉軍の義経軍に山名三郎義範(八郎の父?)と片岡太郎常春がいますから、その時に何かあったのかもしれません。 そしてもうひとつの可能性としては、片岡常春は常陸の佐竹氏と縁戚になっておりますから、そちら側の者だったのかもしれない。
 系図の時系列を解釈してみます。
1180年(治承四年)源頼朝に仕えておりました。
元暦元年の『屋島の合戦』で活躍したので義経から太刀を拝領しました。これ以後は義経に仕えています。
その後奥州へ下り、史実で義経の最期となった『高館の合戦』で義経軍として藤原泰衡の軍と戦いました。しかし敗北して逃げた、と書かれています。
そして、本国(上野国片岡郡)には帰れず、奥州和賀郡岩崎城、和賀家幕下にて御世話になったと書かれています。
亡くなったのが建長二年(1250年)となっています。逆算しますと82歳で亡くなったとして、頼朝に仕えてたのが12歳、『屋島の合戦』時16歳、高館で泰衡軍と戦ったのが21歳となります。 恐ろしく若いです・・・。当時82歳まで生きられたものかどうかわかりませんが、死亡年齢を減らすと頼朝に仕えていた歳が子供になってしまいますのでギリギリです。

【個人的考察その三 片岡について】
 壱『義経郎党に片岡兄弟以外に片岡の性を名乗る者がいた』
いわゆる義経四天王の『片岡八郎』は美作国出身のようです。
片岡義忠という人物は上野国片岡郡出身で実在して、片岡八郎とは別人。
苗字が同じなので二者を混同して美作守と記載してしまったのではないだろうか?
つまり片岡八郎ほどの有名人ではなく、無名の家来の一人で片岡義忠という男がいたのかもしれない。
 弐『系図のミス記載』
この系図の信憑性が低い大きな理由の一つは ”美作守と上野国片岡郡水郷住が相反する”点です。
どちらかが、制作者混同によるミス記載だとすると信憑性は上がるでしょう。
美作守がミス記載の場合⇒ご先祖は片岡常春
上野国片岡郡水郷住がミス記載の場合⇒ご先祖は片岡八郎

【結論】
”義経関連の片岡という姓とは全く関係がなく、豪族だったご先祖様がお金にものをいわせて贋作した系図”なのではないかと私は思っています。
現在は落ちぶれてしまった我が一族ですが、その昔は大豪族だったそうです。このことは一族の大本家長老の言葉を私が聞いています。江戸時代あたりに『系図書き』が流行ったようなので、その時に作らせたのではないかと思っています。
また、お金にものをいわせて有名ご先祖をでっちあげなくても、系図作者の方が地方豪族のご先祖が無名の人間では申し訳ない、と勝手に書いたのかもしれません。
昔から東北では義経人気が高かったようなので、ご先祖を義経と縁のある者にして顧客を満足させていたのだと思います。

最後に、希望的観測と判官贔屓思考を最大限に適用し、この『怪しい家系図』による”ご先祖様が義経殿の家来であった”という記載を信じるとすれば、以下の3つの可能性を残します。

  1. 美作守がミス記載で、ご先祖は片岡常春だった。
  2. 上野国片岡郡水郷住がミス記載で、ご先祖は片岡八郎だった。
  3. 家来の一人に片岡義忠という無名の男がいた。

歴史において真実を知ることはとても難しいです。